
旧尾崎テオドラ邸で味わうヴィクトリアケーキ。愛する気持ちが、時を越えて残すもの【東京・豪徳寺に佇む水色の洋館を訪ねて】
ここ数年、日本でもスコーンが食べられるお店がずいぶん増えて、英国菓子が昔よりも少し、身近になったような気がする。百貨店での英国の催事に足を運べば、ショートブレッドやファッジなど、スコーン以外の英国菓子に出会える機会もぐんと増えた。
数ある英国菓子のなかでも、私がいちばん好きなのは「ヴィクトリアケーキ」。

今日は、そのヴィクトリアケーキを味わいに、豪徳寺にある旧尾崎テオドラ邸へ足を運ぶことにした。
目次
誰かを想う気持ちが生んだケーキ
ヴィクトリアケーキは、厚く焼き上げたふたつのスポンジに、ジャムやクリームを挟んだシンプルなケーキ。
日本のパティスリーに並ぶケーキのように、趣向を凝らしたデコレーションで目を奪うわけではないけれど、英国のティールームでは、どこに行っても並んでいる、おなじみの顔。
スポンジのやさしい甘さ、ジャムの甘酸っぱさは、紅茶との相性が抜群で、英国滞在中はよく食べていたもの。日本に帰ってからも、ときどき思い出しては、無性に食べたくなる。

私がこのケーキを好きになったのは、味だけが理由ではない。
「ヴィクトリアケーキ」という名は、ヴィクトリア女王に由来している。彼女は、夫のアルバート公を深く愛していたことで知られていて、彼を亡くしたあとは、生涯黒のドレスを身にまとい、喪に服していたという逸話が残っている。
悲しみに暮れている女王を少しでも元気づけようと、ティータイムで振る舞われたのが、このヴィクトリアケーキだったという。
誰かの心に、ほんの少しでも明かりを灯せるように。誰かの午後に、ほんの少しの幸せを届けられるように。
そんな想いから生まれたケーキだと知ったとき、私はこの一切れがいっそう好きになった。ふと思い出して食べたくなるのは、そんな物語ごと味わいたくなるからだと思う。
豪徳寺の住宅街に佇む水色の洋館


旧尾崎テオドラ邸がある世田谷区豪徳寺は、招き猫のお寺として知られる曹洞宗の寺院「豪徳寺」でも知られる街。
その豪徳寺からほど近い住宅街に、ひっそりと建つ水色の洋館が、旧尾崎テオドラ邸だ。印象的な色合いと、瀟洒な佇まいから、歴史情緒を感じる洋館として地元の人たちに親しまれてきた。

明治21年、尾崎テオドラ英子が英国から日本へ渡ってきた頃、父である尾崎三良男爵が建てたとされており、建物の基盤となっているのは、19世紀後半に日本へ入ってきたという「下見板コロニアル」と呼ばれる様式。
木の板を水平に重ねるように張った外壁に、水色の塗装と白い窓枠、上げ下げ窓は、異国の風情をたっぷり含んだ佇まいで、豪徳寺の静かな住宅街にありながら、そこだけ少し時の流れが違って見えた。
消えかけた洋館が守られた奇跡

旧尾崎テオドラ邸は、今でこそ多くの人が訪れているけれど、2020年ごろは取り壊しの危機にあったという。
保存のきっかけを作ったのは、漫画家の山下和美さん。世田谷八幡へ参拝する途中、偶然この洋館を見つけ、強く心を惹かれたのだとか。
そんな洋館が取り壊されるという話を聞いた山下さんが保存を呼びかけたことをきっかけに、漫画家たちの協力も集まり、保存プロジェクトが動き出した。

地元の人たちからも「旧尾崎テオドラ邸を当時のまま残してほしい」という声があったが、当時の建物は、窓ガラスが割れ、壁も剥がれ、老朽化が進んでいたという。できる限り当時の姿を生かすため、丁寧な修復が重ねられたが、途中で資金不足に直面し、クラウドファンディングもおこなわれたそう。

現在、旧尾崎テオドラ邸の2階はギャラリーとして使われ、常時漫画の展覧会が開催されている。
紙の原画そのものが残りにくくなっている今、手描きの線や、作家が残した小さなメモまで見られる場所は、とても貴重なのだとか。
失われかけた洋館で、失われつつある手描きの原画を展示する——この場所そのものが、時代のなかで消えそうになるものを、そっとつなぎとめているように感じられた。
一階の喫茶室でいただくアフタヌーンティー

一階の喫茶室では、ケーキやサンドイッチ、こだわりの紅茶などが提供されており、予約をすれば、別室でアフタヌーンティーをいただくこともできる。
アフタヌーンティーのために案内された部屋は、窓からやわらかな光が差し込む、落ち着いた空間。この部屋の床は一度剥がして基礎を直し、もともと張られていた板を順番に戻して張り直したものだという。

運ばれてきたアフタヌーンティーは、下段にサンドイッチ、中段にスコーン、上段にスイーツが並ぶ、英国らしい三段スタンド。お目当てのヴィクトリアケーキも、半切れ添えられている。

サンドイッチは、キューカンバーミント、たまごとクレソン、コロネーションチキンの三種類。
キューカンバーミントのサンドイッチは、英国のティータイムを象徴する一品。今でこそ身近な野菜だけれど、19世紀の英国では、温室や手入れをする人がいなければ口にするのが難しく、きゅうりのサンドイッチでもてなすことは、当時とても贅沢なことだった。
コロネーションチキンは、エリザベス2世の戴冠式にちなんで生まれた、カレー風味のチキンを使った英国の定番。

スコーンには、添えられたクロテッドクリームと季節のジャムをたっぷりとのせて。英国でよく論争を呼ぶのが「先にジャムをのせるか、クリームをのせるか」問題。そんな小さな迷いも、英国のティータイムらしい楽しみのひとつ。

そして、楽しみにしていたヴィクトリアケーキ。
伝統的なヴィクトリアケーキには、ラズベリージャムが使われることが多いけれど、旧尾崎テオドラ邸では季節で味わいを変えているそう。この日の一切れには、レモンカードが挟まれていた。
ふんわりとしたスポンジに、柑橘のほろ苦さと明るい甘酸っぱさが重なる。お店のおすすめだというダージリンの華やかさとも、よく合う味わいだった。
愛されてきたものは、これからも誰かの時間を温める

女王の心に寄り添うために焼かれたと伝わるヴィクトリアケーキ。明治の時代から100年以上にわたり、多くの人々に愛されてきた洋館。そして、その洋館が壊されることのないよう、守りたいと願った人々。
誰かのために作られたものが、長い時間を越えて今も残り、誰かに守られながら、その場所でまた新しい誰かを迎えている。
そう思うと、旧尾崎テオドラ邸でヴィクトリアケーキを食べることには、ただ英国菓子を味わう以上の意味があるように感じられる。
そして、こうしてここに足を運び、紅茶を飲み、ケーキを味わう私たちもまた、この洋館と、この一切れのケーキの歴史を未来へつないでいく一員になっているのだと思う。
人の愛から生まれ、人に愛されて残ってきたものは、これからもきっと、誰かの時間を温めていく。旧尾崎テオドラ邸で過ごした午後は、そんな愛の連なりにそっと触れるような、やさしいひとときだった。
旧尾崎テオドラ邸 喫茶室
住所:東京都世田谷区豪徳寺2丁目30−16
営業時間:10:00-18:00 ※喫茶室のみの利用は不可、入館チケットが必要です
営業時間:12:00-17:30(L.O.17:00)
休館日:木曜日
https://ozakitheodora.com/
ライタープロフィール

【山田志桜里】
ライター・編集者・エッセイスト。出版社勤務を経て、イギリスでフリーランスとして活動を開始。ロンドンでの暮らしと、現地のティースクールで紅茶を学んだ経験をいかし、帰国後は英国文化、紅茶、菓子、ティータイムをおもなテーマに執筆。日常のなかに息づく物語を綴っている。
文=山田志桜里 写真=佐藤 亘

